一OBからのメッセージを送らせてもらいます。他のOBには、ちょっとばすがしいので、匿名希望でお願いします。文面みたら、誰だかわかってしまいますが
私は、1979年の入学です。なんと、18年前!ありきたりですが、ほんとに、昨日のようで、また、遠い昔話となってしまいました
たしか、僕が入部したのは、一年の9月です。勧誘ポスタ−を見て、当時の
主将の中村さんに電話し、その一週間後には入部していました。合氣道は、大学入
ってからやってみようと思っていましたが、入学当初は、新しい環境にうきうき
で遊びまくってました。夏休みが明けて、これではいかん、初志貫徹だ!と思い
立ち、結局、入部したのは9月になってしまった次第です。
皆、そうであるように、「途中やめようか」、なんてこともありました。しか
し、氣がついていれば、卒業まで続けることができた。良き仲間もできた。社会
人になって、「何やってたの?」と、聞かれれば、「合氣道やってました!」
と、答えるほどになっていることにちょっと誇りを感じてます。
○初代達
君達のクラブは(常に、クラブは現役のものと前置き)、僕達が一年の時の4年生の方々が作った同好会です。君達のクラブの名前は、
「心身統一合氣道会」
ですね。実は、私の記憶の限り、最初はこのクラブの名前ではありませんでした。その名もずばり、
「氣の研究会」
たしか、そうでした。「心身統一合氣道会」は、私達の上の代のときから?、も
しかしたら、僕らの代から?、正式名称として使っているクラブ名のはずです。
なんで、そんな大事な話、ちゃんと覚えてないか・・。いや、僕らのときは、結
構、両方の名前を併用してたもんで・・。
もしかしたら、その名残はあるかも知れません。それは稽古の時に正面に掲げる旗のことです。代々引き継がれていれば、「心身統一合氣道会」だけではなく「氣の研究会」の名が入ったものがどこかにあるはずです。
「氣の研究会」なんて名前だったから、私も合氣道のクラブ探すのに結構苦労 しました。合気会と富木流のクラブが存在していることはすぐわかりました。更 にもうひとつあると聞いてどこにあるのかと随分探しました。(卒業のころは、 更に、もうひとつあったような気がします)。私が、なぜ「氣の研究会」を選択 したかは今は思い出せません。単なる偶然、巡りあわせだと思います。一期一会 ですね。
余談ですが、「氣の研究会」時代に初めて作ったトレーナ−のことを思い出し ます。白地のトレーナに、胸に青字で「KI SOCIETY」と大きく書いて あるものです。スキーとかテニスとかのクラブがやっていることを真似たのです が、今考えると恥ずかしかったですね。気の研の先生にも、「何、それ?」と、 言われたことを思い出します。やはり、ユニフォームは、胴着と袴ということで しょうか。
さて、題意にそって。
クラブの名前が「氣の研究会」であったところに、初代の方々の雰囲気が感じ とれるのです。「合気道」というわかりやすくアピールが効く言葉を敢えて用い なかったところに肩肘張っていない様が見て取れます。つまり、初代の方々は、 ほんとに有志、やりたい人でやろうと始めたのでしょう。この雰囲気は、我々が よく先輩聞かされた以下の言葉に代表されます。
「来るものは拒まず、去る者は追わず。」
私が入部したころは人事往来が激しいクラブでした。しかし、上記の考えがあっ てのことか、部員の入部,退部等で波風が立つということはなかったようです。
クラブが創立された経緯は、先輩達の話しを総合するとおおよそ以下の通りと 推測されます。
氣の研の道場に通っていた田代さん(僕達の世代では偉大というイメージがあ る人です)が、大学の同世代を募って仲間内で始めたのでしょう。そのうち、2 代目の人達も加わって、クラブにしようかと。更に、稽古を理工学部道場でも始 めて、氣の研の先生も呼んで・・・・。ちなみに、初代先生は、大島先生でした (これは、後々紹介しましょう)。
このような出来立てほやほやのクラブだったから、武道のクラブのイメ−ジで 入部してきた者にはびっくりということが多々ありました。私も、そのひとり。 高校時代、厳しい体育会系のクラブを経験した私は、以外だ!思ったことがたく さんありました。ひとまとめに言うと、先輩が、妙にやさしい。威張っていな い。ほんとに "同好会" でした。創立初期には、そんな雰囲気が在りました。だ から、新入生のぼくらに対しても、一緒にやろうよ、そんな感じでした。
マイナス面もあったと思います。当時、稽古は、
- 火曜日 夕方
- 水曜日 午前
- 木曜日 夕方
- 土曜日 午後
でした。僕らの代までこのパターンは続いて、その後、すぐ、毎日になったと聞
いてます。週4回の稽古はそこそこと思いますが、出席の縛りはなかったため
か、練習の量には個人差が随分あったと思われます。これも、初代の方々の好き
なだけやれば良いという雰囲気だったのでしょうか。
出席率が悪くても、稽古の後、1年生〜4年生一緒になって高田馬場まで歩
き、食事にいったりしていたのが常でした。これは、我々が卒業するまで続い
た。今もそうなのかなぁ。その後、人数が多くなるにしたがって、徐々にクラブ
らしい?かたちになってきた、振り返って見ると、そんな過渡期に僕はこのクラ
ブに在籍したという気がします。
これは、クラブ設立のころのなごりではないか?と、思っていることがもうひとつあります。卒業後、OB会で我々の代は、当初、第5代と紹介されていました。今は、第4代と紹介されます。 Why?
おそらく、初代の方々は、2年か3年の時に、クラブを作っていると思いま
す。推測するに、初代主将は田代さん、その後、初代の中で一度、幹部の組み替
えがあったのではないかな?と思われます。・・・これ、勝手に僕が思っている
んですけど。だから、幹部代でいう時と、卒業年次で言う時とで代数が変わって
くるのではないかなぁ。
創立当初は、初代と2代目(年次として)は、仲間という感じだったようで
す。年齢でみれば、浪人とか留年とかでごちゃまぜになる訳だし、できたばかり
のクラブですから、一年下のものが一年上のものを仲間のように呼び捨てするよ
うな雰囲気だったと聞いています。さすがに、僕が入部したときは、上下関係は
はっきりしてましたが・・・。でも、そんな良き時代もあったようです。
最後から二つ目に・・
彼らが最初に稽古したところは、現在の理工学部道場の
建物があった場所の裏
に存在した道場だそうです。掘っ立て小屋みたいなという表現がぴったりで、
2,3回前受け身をとると壁にぶつかって、飛び受けを派手にやると天井にぶつ
かる・・、そんな道場だったそうです。そんなところから、始めたクラブが今も
活躍している・・・大切にしたいですね。
最後に、初代の方々についてです。うろおぼえで失礼なところも多々ありますが、ごかんべん。
- 田代先輩
- 伝説?の主将でした。警察関係に就職されました 数年前、大島先生が帰国後に多摩の方で借道場で稽古をされたとき、半年程、ご一緒させていただきました。ご結婚され、奥様とご子息をよく連れてこられてました
- 高橋先輩
- たしか、副将だったと記憶してます。細いながら、 体力に頭がさがる・・。最初のOB会を、OB会 というより、現役のために開催していただいたのは 高橋さんです。それが今日まで続いています 住友電工に就職されました
- 田村先輩
- 一九会でお世話になりました。証券会社に就職されました。4年生になってから稽古はこられませんでしたが、よく、おごってもらいました。
- 平賀先輩
- 中国語を専攻しておられ、通信社関係の会社に就職されました。稽古を一緒にさせていただいたことはありませんでしたが、クラブのイベント時の打ち上げによく来ていただき、いろいろとお話を伺った記憶があります
- 平松先輩
- 大蔵省に就職されたと記憶しています 人生について、喫茶店で熱く語ってもらった記憶があります。我々の2代下が、体技審査会で入賞したことを、電話で報告したとき、大変喜んでいました。ずいぶん、昔のことですが)
- 藤葉先輩
- 合氣道を始めたのは、遅かったようです。ですが、一番、遊んでいただきました。稽古を離れて。考えてみれば、私は一年生だったからすごいことで すね。セキスイハウスに就職されました。
個人的なことですが、田代さんを除いていずれの先輩も十数年近くごぶさたです。でも、初代達のこと、これは、後輩にも伝えたい・・・・。
#乱文、誤字脱字、仕事の合間に作ったこと、大目にみてください。